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院長日誌

プライベート

  • 2015/04/03

    はやいもので

    はやいもので、ついこの間 忘年会をしたところだと思っていたら、もう4月、卒業式はとっくに終わり、入学の季節となりました。
     
    時の経つのはじつにはやいもので、自分が松本歯科大学に入学したのは、36年も前になります。
    今まで自分の過去やプライベートについては、院長日誌では触れてきませんでしたが、少しだけ記しておきたいと思います。
     
    じつは、自分は高校3年生の夏休みまで、弁護士志望で文系を取っていました。
    ところが、高校3年の夏休みに突然心変わりし、歯学の道に進むことを決意しました。
    「決意した」というのは、まあ身勝手な話で、当時の自分は歯学部の学費がいくらかかるのか、仕送りがいくらかかるのか、親の収入がどれほどあるのか等々、考えもしないで、親に前もって相談もしないで、いきなり「僕も歯医者になる!」と言いました。
    当時の親の収入を考えると、兄の学費だけでも大変だったことは明らかですから、自分の言葉にさぞ驚き、困ったことだと思いますが、親は何も言わずに二つ返事でOKしてくれました。
     
    高3夏の理転に加え、もともと脳ミソは普通の人の半分くらいしか働いていませんから、国公立などとても無理で、受けたのは実家から通学できる愛知学院大学と、松本歯科大学の2つのみでした。
     
    そして、愛知学院の受験当日。
    近鉄急行で名古屋駅に、名古屋駅バスターミナルから市バスで日進町の試験場に向かったのですが、、、市バスに乗るのは初めてだったので、乗り間違えて、バスは全然違う方向に、、。
    なんとか試験場に辿り着いたときには、すでに英語の試験が半分ほど終わっていました。
    結果は言うまでもなく、自分を受け入れてくれたのは、松本歯科大学のみとなりました。
     
    松歯大は昨今の国試合格率の低さから、雑誌やネットで叩かれていますので、母校を恥じて松歯大出身である事を隠すOBもいますし、国公立大学出身の先生達からは松歯大出身である事を馬鹿にされることも多いですが、自分は、松歯大の卒業生であることを別に隠す必要も無いし、恥じてもいません。
    なぜなら、松歯大がなければ、今の自分は無いわけですし、Book smartな先生が何と言ったところで、矯正治療に関して言えば、どんな先生達よりも自分の方が遥かにキチッと治しているし、EBOJOBを舌側矯正で受かった人間は、誰一人としていないからです。
    ちなみに、松歯大の国試合格率は、開学後3年ほどは、日本唯一の足切り無しの100%を達成し、日本中を驚かせました。
    8期生である自分たちの頃は確か97%程であったように記憶しています。
     
    まあ、こんな数字や出身校などはどうでも良く、歯科医師免許を下附されてからどうゆう歯科医師になるかという事のほうが大切なわけで、保険でカバーしている筈の治療を300万、400万と法外な治療代を取っている金の猛者や、保険だからこれでイイと、なんともお粗末なレジン充填(ハナクソ充填)を平気でやっている歯科医もいます。
    自分は間違ってもこんな歯科医師にはなりませんし、なれません。
    診療ユニットに座っているのが患者さんである以上、自分に出来る限りの最高の治療をする、それしか考えていません。
     

    大学入学後は芝茶屋の学生寮に入り、松本歯科大学自慢の素晴らしい自然環境と充実した施設でキャンパスライフが始まりました。
    1,2年生の教養課程は、ドイツ語やラテン語に苦しめられ、2年の後期試験は なんと27教科(!)で、毎日毎日、何日も何日も試験でした。
    解剖学で、筋、血管、神経の起始・停止・作用が覚えられず、病理学では毎回切片標本の細胞と格闘しましたが、なんとか乗り切りました(今思うと、丸暗記するのでは無く、理解すれば簡単に覚えられるのですが)。
     
    3年になって専門課程が始まり、マネキン模型の歯を削ったり、歯型を採ったりという実習が始まると、毎日が楽しくてしょうがなかったのを思い出します。
    楽しいことはスラスラと頭に入り、幸にも追再試験とは殆ど縁がありませんでしたので、追再試験期間中にふらっと帰省してみたら、親が驚くような晩御飯を食べていました(親の名誉のために詳しくは書きませんが)。
    いつも定期休暇で帰省すると、ステーキ、すき焼き、お刺身などなど、御馳走を毎日腹一杯食べさせてくれて、それが当たり前だと思っていましたので、親の食べている御飯を見て、驚きのあまり「なにを喰ってんのや」と言うと、「今日は忙しかったもんで、晩飯を作る時間が無かったんや」とのこと。
    その言葉を疑いもしませんでしたが、今思えば、自分たちの学費や仕送りで、本当にキツかったんだろうな、たいへんな苦労をかけていたんだなあ、と、つくづく思います。
     
    歯医者というと、親が医者歯医者で、子供が幼い頃から月給を支給して(これは税法上認められていません)、子供が開業する頃には、何千万、何億円という貯金があって、借金などしなくても自己資金のみで開業できる、場合によっては、土地付き、診療所付き、スタッフ付き、患者付き、借金無し、という恵まれた状況でスタートする先生も数多くいます。
    そうゆう人達を妬む気持ちは全くありませんが、自分が歯医者をして居る限り絶対に忘れられないのは、自分の飯を食わないで子供に食べさせてくれた親への感謝の気持ち、そして自分や兄の前で、苦しいとか、金が無いとか言ったことは1回も無く、まさに歯を食いしばって頑張ってくれた、そんな親を自分は絶対に粗末には出来ない、ということです。
     
    ですから、親に対する一番の恩返しは、少しでも立派な歯科医になること、歯科医として成功すること(お金じゃありません)であると考えていますので、矯正歯科に関しては誰にも負けない、長野県と言えば ひろ矯正歯科、日本にヒロあり、と言われるよう、全力で走り続けます。
     
    医者や歯医者は楽で高収入と思っている人が殆どだと思いますが、お医者さんの中には、こんなブログを書く人もおり(このブログはマズイと思います)、一般の人には想像もつかないような精神的・肉体的疲労と闘いながら私達医療人は生きているのですが、私はどんなに辛くても、どんなに苦しくても、辛いとか、辞めたいとか、愚痴や弱音を吐けません。
    口が裂けても「オレは歯医者なんか なりたくなかったんだ」などと、親を崖から突き落とすような事は言えません(自分はそんなこと思ってもいませんが)。
     
    「親」という字は、立、木、見という漢字から成ります。
    我が子の帰りを心配して、立木に登って遠くを見る、という意味だそうです。
    あと少しで、母の83回目の誕生日になります。
    幸にも親が近くに居てくれるおかげで何時でも顔を見れますし、食事なども頻繁に誘うことが出来ます。
    「親孝行 したい時には 親はなし」、死んでから「アレをしてやりたかった、コレもしてやりたかった」と泣いて後悔しても遅いです(縁起でも無いこと書くなと親に叱られそうですが)。
    両親共にいつまでも元気で居て欲しいと思います。
     
     
    昨年の忘年会は、松本の割烹 仙岳で行いました。
    いつも忘年会の際に、私から「1年間のシメのお言葉」を言わせて頂きますが、昨年は「反省と後悔の違いは何か」ということについて、自分なりの考えをお話しさせて頂きました。
    ネットや辞典で調べると、反省は次に繋がるが後悔は繋がらない、といったことが書かれていますが、自分の考え方は少し違います。
    さて、何でしょう、、。
    皆さんも御自身で考えてみて下さい。
     

    おしまいに、忘年会の写真を少し、、。
     

     

    ビンゴ大会の豪華景品!!
     

    アルマーニのバッグをゲットした川端下君、嬉しくて泣いちゃいました、、。
     

    仙岳のマスターと
    久々に使わせて頂きましたが、やっぱ仙岳はイイですね。
    今年の年末もお願いします。
     


    忙しくても、不平不満を一切言わず、一生懸命働いてくれるスタッフ達。
    自分の最高の宝物です。
    ほんとうに有り難う。
    これからも宜しくお願いします。
     

  • 2014/06/02

    「恩師」

    みなさんには、「恩師」は何人くらいいるでしょうか?
    小・中学校の同窓会には、当時の先生達は「恩師」として出席されていますし、実際に恩師である事に違いはありません。
    私にとって「恩師」というのは、勉学を教えてくれた先生だけで無く、もっと広義で捉えていますので、私の恩師は本当にたくさんいます。
    私は歯科大学を卒業してからすぐに矯正科の医局に入局しましたので、矯正学講座の教授である出口敏雄先生は恩師の筆頭であり、今もたいへん御世話になっています。

    一方では、個人的な交流は一切無しで、教授と一学生以上の付き合いは無かったけれども、間違いなく私自身の人生に大きな影響を与えた「恩師」がいます。
    そのお方は、橋本京一先生、私が学生時代、補綴学第1講座の教授であらせられ、講義や基礎実習、臨床実習などで御世話になりました。

     

     


    私が卒業した当時の補綴科診療室で指導をされる橋本先生(卒業アルバムから)

     

    今から35年前、歯科医師を志して松本歯科大学に入学し、専門課程が始まると、授業が楽しくて仕方が無かった毎日。
    私達の学生時代には、大学に「名物教授」が何人もいらっしゃって、この先生の授業を受けられる、この先生から教われるということが、どれほど有り難い事かと、胸を弾ませて一生懸命勉強をしたのが昨日の事のように思います。

    橋本先生は、その名物教授の中の1人で、当時は、学生も補綴科の医局の先生達も、橋本先生のことを「コワイ」と言っていましたが、私自身は記憶の限りでは今まで橋本先生の事を「コワイ先生」と思ったことは無く、むしろ、「自分はこうありたい」、「歯科医師は かくあるべき」と、自分の理想の歯科医師像として、人間としての憧れを抱いていました。
    「コワイ先生」と評されたのは、私が思うに、橋本先生は全てに対して、ものすごく厳格な先生であるからだと思います。

    いい加減な事や、妥協を許さない。
    橋本先生は、何故に全てのことに一切妥協をしないで、そこまで厳格に生きられるのか。
    それは、「常に自分に対して一番厳格であるから」だと、私は思っています。
    橋本先生が仰る事は、全てスジが通っており、肯定するにも否定するにも、必ずそれを裏打ちする理論と理由が存在しています。

     


    私が卒業した当時の橋本先生(卒業アルバムから)

     


    私が卒業した当時の補綴学講座(卒業アルバムから)

     

    学生当時、私は大学を卒業したら dentureか矯正のスペシャリストになろうと決めていました。
    いろいろな理由で出口教室に入局しましたので、橋本先生とは特に交流を持つ機会も無く、何年もの歳月が流れました。
    ところが最近、Facebookで橋本先生とお近づきになることが出来、橋本杯ゴルフコンペを計画したり(荒天のため中止になりましたが)、メールでやり取りが出来る状況となりました。

    先生は歯科大のゴルフ部の顧問をされていましたが、自分はゴルフ部でもなかったし、先生は覚えていらっしゃらないだろうなと思っていたのですが、先生から松本歯科大学の観桜会で塩尻に行くので会えますか、とメールを頂き、私は大喜びで ひろ矯正歯科の診療室にお越し頂きました。

     


    私が卒業した当時のゴルフ部(卒業アルバムから)

     

    お会いして驚いたのは、先生は私の学生時代の頃のまま 35年間、全く変わること無く、とてもお元気でいらっしゃり、御自分で車を運転していらっしゃいました。

    今も現役で歯科医師として診療をしていらっしゃるだけでなく、講演活動も活発に行われていらっしゃいます。
    東京に講演に行かれる際にも、名古屋から御自分で車を運転されて行かれるということは FBで読んで知ってはいましたが、凄すぎる、の一言です。

    ひろ矯正歯科の中を一通り御覧頂いた後、先生はプロジェクターとパワーポイントを使って、私一人のために3時間程の講義をして下さいました。
    その講義たるや、まさに学生時代に教わった「橋本教授」そのもので、35年前の事だけでなく、先生が戦争に行かれた頃の写真や、当時の医学的状況はじめ、いろんな事をまさに昨日の事のように、はっきりと覚えていらっしゃっいました。

     

    レクチャー以外にも、とても大切なことをいくつか教えて下さいました。
    例えば「廣先生、手を拭くのにペーパータオルを何枚使いますか? 2枚使っていますよね? 手を洗った後、手をこうやって10回振って水を切ってから拭くと、1枚で済みます。そして、拭いたペーパータオルは、ゴルフボールくらいの大きさに丸めて捨てると、ゴミの量が何分の1かになります。」といったような事です。
    このような事を言うと、「五月蠅い」とか「ケチ」と思う人が多いのですが、私はこうゆう細やかさを常に忘れない、これぞまさに「橋本流」、感激しました。
    ケチで言っているわけでは無く、「無駄な事はしない」ということを徹底する。
    それは裏返せば、必要な事をするためには、無駄な事をしている時間はない、ということなのです。
    ひろ矯正歯科には、その日以来、ペーパータオルの置いてある場所には、「1枚で十分」、「使用後はゴルフボール大に丸めて捨てること」と、張り紙をしました。

    先生は、診療の傍ら、ある医療法人の人事も担当されていらっしゃるそうで、お話の中で、「この間も面接をしたんですが、『あなたのような人は、今すぐこの医院から出て行きなさい』、そう言ってやりました。」と仰っていましたが、最近は、ちょっと注意すると、相手が誰であろうが、自分が間違っていようが、一切お構いなしに食ってかかるという、まったく子供のような歯科医が多いことは、私も同感です。自分の持てる知識を何一つ隠すこと無く全て教え、将来のことまで見据えて親身に考えてくれている人に対して、喧嘩を売る、罵倒する、そんな愚か者と過ごす時間は、私は 1分たりとも持ち合わせていません。

     

    橋本先生はレクチャーの内容もさることながら、見やすいスライドの作り方や注意点など、いろんな事を教えてくださり、1人で聞くのは本当に勿体なすぎましたので、機会があれば、人を集めてご講演を頂きたいと思っております。

    レクチャーの後、松本市内の仏蘭西料理店にご案内し、晩御飯を御一緒させて頂きました。
    先生はお酒は一切お召し上がりにならない、「飲めない」のではなく、「飲まない」。
    そのスタイルを若い頃から頑なに通していらっしゃるそうで、ここにも「橋本哲学」を感じました。

    橋本先生、お忙しい中、お時間を頂きまして、本当に有り難うございました。
    いつまでも現役で御活躍されますことをお願いいたします。

     


    仏蘭西料理の「メゾン ド ヨシダ」にて。
    先生と一緒に食事が出来たことを、本当に光栄に、有り難く思います。

     

  • 2013/02/14

    My dearest Friend, Alain

    2013年2月7日、私の最も尊敬する、最も大切な親友である、パリ大学矯正歯科の教授であるDr.Alain Deckerが永眠しました。
    あまりのショックと悲しみに、何も言葉が出ません。
     
    診療中は、患者さんの治療に集中していますが、診療が終わって帰宅すると、悲しくてしょうがないです。
    ひろ矯正歯科の院長日誌に書くべきネタでは無いようにも思いますが、人が死ぬということは、どうゆう事か、生きるということはどうゆう事か、今一度、皆さんも考えて頂きたく、書くことにしました。
     
    Alainは、2011年、大阪でのWSLOの際に、彼を含めた十数名が私の医院に見学に来る予定でした。
    松本城観光に始まり、典型的な日本料理での晩御飯を用意していたのですが、3月11日の福島原発事故でフランス政府は日本への渡航禁止令を出したために、残念ながら来日中止となってしまいました。
     
    昨年、パリで一緒に食事をしている時に、「日本に遊びにおいでよ」と誘ったら、「もう少しでパリ大学をリタイアする、そしたらイギリスに引っ越すんだ、だから今、イギリスに家を作っているんだ、そっちが忙しいから無理だ」と言いました。
    もしかしたら、その時、彼はすでに彼自身の余命について悟っていたのかも知れません。
     
    パリでの夜は、私が牡蠣が好きなので、高級なレストランを予約してくれ、私が生牡蠣を片っ端から平らげるのを見て、何回も何回もおかわりを注文してくれました。
    超一流レストランでのワインと生牡蠣、途方も無く高額なディナーだったと思います。
    今年の春は私が彼を招待して、彼の好きな物を腹一杯喰わせてやろうと思っていたのに、、、叶わぬ夢となってしまいました。
     

    最近、悲しい事件が多すぎます。
    東北の震災で命を奪われた人達。
    笹子トンネルの管理不行き届きから命を奪われてしまった人達。
    コネチカットで銃乱射、命を奪われた人達。
    LAで冤罪を主張し、警官を逆恨みしての警官殺人。
    Guamでの無差別殺人。
    今朝、朝御飯を一緒に食べ、行ってらっしゃい、と、手を振って送り出した家族が、帰らぬ人となる。
    ついさっきまで、そこで一緒に御飯を食べ、一緒に酒を飲んでいた人が、酒を買いに行ったまま帰らぬ人となってしまう。
    人の命なんて、なんとはかない、なんとあっけないものでしょうか。
    でも、人間である以上、いつか死ぬ。
    必ず死ぬ。
    死なない人なんていません。
     
    いつ死ぬかわからないから、出来るだけ手を抜き、出来るだけ楽をするんだ、自分中心に生きるんだという人もいます。
    でも私は、いつ死ぬかわからないからこそ、常に自分に出来る限りのことを精一杯頑張って生きなければならない、自分は最後にして、人のために生きなければならない、と考えます。
    そして、自分一人で生きているわけではない、自分一人の力で今の自分があるのではないということを常に肝に銘じ、恩を受けた人に恩を仇で返すことが無いように生きて行きたい。
    人間は、いろんな人の恩を受けて生きています。
    親、恩師、友人、家族、、。
    私の親は現在、82才と80才で、幸いにも両親とも健在です。
    いつまでも元気でいて貰いたいと、毎朝手を合わせますが、いつ、何処で、どうなるかわからない。
    私の親は、とんでもない苦労をして私を歯医者にしてくれました。
    歯医者には、親が医者や歯医者で、何の苦労も無しに歯医者になった、開業する時には、土地付き、医院付き、患者付き、スタッフ付き、借金無し、という先生が多いです。
    それを妬む気持ちは全くありません。
    事実として言えるのは、私の親は、喰う物も喰わないで私を歯科大に入れてくれたということで、これがどんなに大変な事か学生時代は全くわかりませんでしたが、卒業して自分で働くようになって、やっとわかりました。
    今、私は矯正歯科医として成功していますが、今の私でさえ、子供が私立の歯学部や医学部に入りたいと言ったら、「頑張って国立に入って頂戴」、と言わざるを得ません。
    だから私は、恩を全うするために出来る事は、私自身が最高の歯医者になること、それ以上の恩返しはないだろうということです。
    金目当てで歯医者をしている、金目当てで矯正歯科医をやっている先生もいます。
    私はお金なんかどうでもいいです。
    正直、お金は欲しいですが、それよりももっと大事なことは、最高の治療をすること、最高の矯正医になることだと考えます。
    恩師への恩返しについても同様に考えます。
     
    自分の食べる分を取り分けておいて、子供には与えない親がいます。
    自分は飢えていても、自分は我慢して、子供に食させる親もいます。
    人生の価値観、家族や回りの人への価値観は人それぞれでしょうが、私は最低限、御世話になった人が死んだあとで、「ああしておけば良かった」、「あんなこと言うんじゃなかった」と後悔したくない。
    そう考えて、精一杯、毎日生きています。
    患者さんの治療にも、スタッフに対しても、家族に対しても。
    患者さんや、スタッフや、家族の期待を裏切らないように。
     

    Alainとの思い出を slide showにまとめました。

    興味ある方は御覧下さい。
     
     

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